2014年10月9日木曜日

渡辺保インタビュー 歌舞伎からアングラまで観劇する評論家が

渡辺保インタビュー 歌舞伎からアングラまで観劇する評論家が「日本の伝統」についてもの申す 日本人らしさ、日本の伝統って何だろう? 2020年『東京オリンピック・パラリンピック』の開催が正式に決まった一方、アジア周辺諸国との関係がイマイチだったり、「クールジャパン」のように、日本文化輸出の問題がいろんなところで取り沙汰され、日本人のアイデンティティーについて考えさせられることも多い、今日この頃。akb48 そんな中「世界的な文化創造都市・東京」の実現を目指す、東京文化発信プロジェクトのプログラムとして、11月1日に『日本舞踊と邦楽による道成寺の世界-人間国宝と若き俊英の競演-』が開催される。能楽や歌舞伎、邦楽など様々な伝統芸能の中で表現され続ける「道成寺伝説」。その中から『娘道成寺』『日高川』『鐘の岬』を、人間国宝の西川扇藏、新内仲三郎、今藤政太郎をはじめ、気鋭の舞踊家・演奏家たちが上演する。 そして同イベントのナビゲーターを務めるのが演劇評論家の渡辺保。歌舞伎や能はもちろん、オペラから劇団「イキウメ」にいたるまで、ジャンルも世代も問わず、1日1本(多いときには2~3本)の舞台を観劇しているという。「伝統芸能」と聞くと、どうしてもハードルが高いように感じてしまいがちだが、その壁を軽やかに越えて自由に舞台と向き合う渡辺さんに、そもそも「日本の伝統」とは何なのか。本公演の魅力を含め、お話を伺った。 ■「日本の伝統」や「日本人らしさ」ということを人は簡単に口にするけれども、何が「日本の伝統文化」なのか、もっと丁寧に考えていかなければいけないと思いますね。 ―渡辺さんは演劇評論家として、現代演劇から歌舞伎まで幅広く評論されていますが、歌舞伎や舞踊のような「日本の伝統芸能」について、どう感じられていらっしゃいますか。 渡辺:そうですね、「日本の伝統芸能」についての話をする前に、そもそも「伝統」とはどういうもので、「日本らしさ」とは何なのかについて、きちんと整理しておかないといけないと思うんです。 ―渡辺さんにとっての「伝統」とは何でしょうか。 渡辺:伝統は「ふるさと」みたいなものです。いつもはあまり考えないけど、忘れていた頃に「ああ、自分って日本人なんだなあ……」と、フッと思い出す。伝統を考えるときに便利なのは「古典」と「現代」という構図です。「古典」は今日とは違う時代に作られたもので、「現代」は今日に作られたもの。『源氏物語』は、1000年前の小説で、そこには過去の時代の特殊な面と、いつの時代にも通じる普遍的な面との両方が書かれています。たとえば、男女は御簾ごしにしか会えないというのは、現代人には理解できないでしょう。当時の特殊な風習だからです。しかし、その男女の恋愛心理は現代人にも理解できるし、恋愛小説と同じです。その通じて生きて輝いているものが「伝統」だと思います。akb48 ―では「日本人らしさ」「日本の伝統文化」についてはいかがですか? 渡辺:それには、日本文化のオリジナリティーはどのくらいあるのかを考えることですね。日本には何か固有のものがありますか? ―日本語を話すこと……でしょうか。つまり私の思考や世界観自体が「日本語」という言語の影響を無意識に受けていますし、日本という気候、風土の中で暮らしていることも「日本人らしさ」に影響を与えているような気がします。 渡辺:日本語は中国がなかったら成立しないでしょう。桜はチベット原産だし、菊、梅、牡丹もみんな中国。仏教はインドだし、寿司は東南アジア、天ぷらはオランダ、三味線も着物も中国。能や歌舞伎の源泉はインドです。これこそ日本の伝統だなんて思っているものは、全て日本が原産地はではありません。 ―つまり、私たちがそれらを勝手に「日本らしさ」と勘違いしているということでしょうか。 渡辺:ええ。だからそう考えると、日本のオリジナルは富士山しかないんですよ。富士山はオリジナルでしょう? だって動かせないんだから(笑)。動いていくものはみんなのものだし、誰のものでもないんですよ。 ―なるほど(笑)。 渡辺:ただ、桜はチベット産だとしても、ソメイヨシノを作ったのは日本人ですよ。原産は外国だけれども、それを磨いて磨いて自分たちのものにする。これが日本文化の伝統です。だから、私たちがもっとも大切にしなければならないもの、次世代に渡さなければならないものは、この「細部を磨いて加工する」独特の感覚なんですよ。 ―そこから「日本人らしさ」が出てくるんですね。 渡辺:そうですね。長い時間をかけて、洗練された思いもかけないものを作る。これが日本人です。たとえば、中国の三絃(さんしえん)が沖縄へ渡って三線(さんしん)、蛇皮線(じゃびせん)になり、それが日本の三味線になる。しかしこの3つの楽器を比べて聴いてみても、同じ系譜の楽器とはとても思えない。三味線の音は繊細微妙で、日本のような湿気のある風土で生まれた上に、その音が磨かれて、ついには物語や風景、人間の心持まで語る楽器になったのです。「伝統文化」ということを人は簡単に口にするけれども、日本の伝統文化とは一体何かということを、もっと丁寧に考えていかなければいけないと思いますね。 ―「日本の伝統」と、ざっくりイメージするものを日本人みんなで大事にしましょう、というのはすごく危険なことでもあって、それが悪用されてしまうと変なナショナリズムにも繋がってしまうわけですよね。 渡辺:そうそう。だから、日本のナショナリズムは一体どこで成立するんだという問題は、真剣に考えなければいけないんですよ。 ■日本人にとって「身体」は着物で隠すべきもので、イメージの中で成立するものだったわけです。 ―渡辺さんが「日本の伝統芸能」に興味を持たれるのは何故ですか? 渡辺:私が日本の伝統芸能に興味を持つのは、そこに日本人特有の身体感や世界感の手ざわりがある。つまり日本人のふるさとがある。ふるさとに触れることで感動が生まれ、それが新しい創造につながるからです。 ―具体的に言うと、どういうことでしょうか。 渡辺:たとえば、私が観ている「踊り」の世界で言うと、日本の踊りというのは「イメージ」なんですね。ヨーロッパと比べてみるとすぐにわかる。バレエにしろ、コンテンポラリーダンスにしろ、ヨーロッパのダンスは「身体」で成立しているでしょう? でも、日本人にとっての「身体」は「イメージ」なんです。 ―バレエだと小さい頃から身体を矯正して、人間離れした美しいダンスを見せることに重きを置きますが、日本舞踊や歌舞伎では、そこまで身体を追い込んだり、そのものを見せたりするわけではなく、その「踊り」や「動き」からイメージを膨らませることに重きが置かれているわけですね。 渡辺:そうですね。だいたい日本人は身体をあからさまにしたくないんだと思います。着物だって身体の形を隠すようなデザインになっているし。明治時代は洋服を着ていると「浅ましい」って言われたそうなんです。身体の線が出てしまうから。つまり日本人にとって身体は着物で隠すべきもので、イメージの中で成立するものだったわけです。 ―おそらく、そのイメージは精神的な世界も含んでいるんですね。 渡辺:日本古来の宗教は、もともと偶像を持っていないですよね。キリスト教も仏教も偶像があるでしょう? でも日本の神棚には何もない。ただの紙が入っているだけ。それは伝統芸能でも同じです。だから日本舞踊は、身体を着物で隠して踊りながら、イメージの身体を観客に届けているんです。 ―それが、先ほどのお話でいう「日本のオリジナリティー」ということでしょうか。 渡辺:そう。神棚から直結しているナショナリズムですよね。でも、多くの日本人は、こういうことをちゃんと深く考えようとしないから、いつまでたっても形ばかりの伝統にとらわれて、それを自分のものにできないんだと思います。 ■基本的には伝統的でクラシックなものと、前衛的なもの、その2つにしか興味がないのかもしれません。結局、突き詰めているものが好きなんですね。 ―渡辺さんが歌舞伎にハマったきっかけって何だったんですか。 渡辺:6歳の頃だから、半世紀以上も前ですけどね(笑)。その頃の日本の家庭は今のように核家族化していなくて、おじいさんもおばあさんもみんな一緒に暮らしていたんです。夕方になると、寄席に行こうか芝居に行こうかって、家族みんなで行動していた。そうして連れられてはじめて観に行った歌舞伎座で六代目尾上菊五郎を観て、子どもだった私はいっぺんで好きになったんですよ。akb48 ―菊五郎のどういった魅力に惹かれたんですか? 渡辺:子どもだったから、芝居の中身がわかるわけでもないし、ましてや芸がわかるわけでもないわけで。それでも私が虜になったのは、早替わりの「変身」がものすごかったから。1人の役者が狐になったり、幼い少女になったり、無頼の願人坊主になったり。ただ早替わりするだけじゃなくて、そこで芸も変わるから身体もすごく変わるんですよ。仮面ライダーの変身とは、わけが違って(笑)。自分の目の前で、まったく違ったキャラクターを生き生きと演じることがどれほどすごいことかって、それは子どもでもわかりますからね。あのとき観たのが別の役者だったら、私は歌舞伎なんか好きにならなかったと思います(笑)。 ―空気というか、劇場全体を変えてしまう力があったんですね。それは絶対に劇場でしか感じられない体験ですよね。 渡辺:菊五郎の偉大なところですね。あれには本当にやられちゃいました。だから、子どもの頃に同じような体験をした人が、私たちの世代にはたくさんいたんじゃないでしょうか。それからは本当に夢中で劇場に通いましたね。 ―そのときの感動を忘れられずに、現在に至るわけですね。 渡辺:そうそう。だから私は「伝統」というお題目で歌舞伎を好きになったわけじゃないんですよ。実質がなければ感動なんてあり得ないでしょう? いくら人に薦められたって自分が感動しなきゃ、次は観に行かないですよね。 ―歌舞伎以外の舞台もよく観られたんですか? 渡辺:歌舞伎からはじまって、新劇からアングラ演劇からバレエまで、いろんな舞台を観ました。寺山修司さんや蜷川幸雄さんの芝居もたくさん観ましたし、蜷川さんとは今でも付き合いがありますよ。でも、私は基本的には伝統的でクラシックなものと、前衛的なもの、その2つにしか興味がないのかもしれません。 ―それは何故? 渡辺:他は中途半端ですからね。今でもその中間はあまり観ていません。商業演劇で働いていた時期があるせいかもしれませんが、この中間はお話とかもつまらない(笑)。でも結局思うのは、1人の観客にとって、演劇は1つしかないんです。歌舞伎だろうが、アングラ演劇だろうが、観客と舞台がどういう関係を持てるのか? という点では、舞台で演じられるものは1つなのです。私の場合は突き詰めているものが好きで、それを中途半端にこのへんでいいや、っていう作品は嫌なんですね。だから私の場合は、何か特別な「伝統演劇」なんて存在しないんです。 ■宗教、文学、演劇、美術、音楽。あらゆるジャンルを横断して日本文化の底流に流れているところに『道成寺』の特色がある。その中でも『道成寺』は、女の怨みを扱っているために突出しているわけです。 ―とはいえ、歌舞伎や日本舞踊はやはりハードルが高いイメージで、なかなか観に行けないのですが……。渡辺さんが今回ナビゲーターを務めるイベント『日本舞踊と邦楽による道成寺の世界』は、『道成寺』という恋の物語がテーマということで初心者でも入りやすそうな印象です。 渡辺:簡単に説明すると、宿屋の未亡人が熊野詣(くまのもうで)に向かう山伏を口説いてフラれるという話なんです。その山伏が逃げ込んだのが紀州の「道成寺」で、それを知った未亡人が裏切られた怨みで蛇体になって、道成寺に現れ、鐘の中に隠れていた山伏を鐘ごと焼き殺してしまったというお話です。 ―女の怨念がテーマに描かれているんですね。 渡辺:そうそう。もとは「法華経」の布教用パンフレットに載せるために、口承で伝えられてきた伝説を引用したものだったそうです。山伏を焼き殺してしまったというお話までは前フリにすぎなくて、本来の主旨はその先にあるんですよ。事件の後、道成寺の住職の夢の中に、毎晩山伏と未亡人の霊が出てきて、「このままでは成仏できない」と訴えてくる。そこで成仏させるために、住職が詠んだのが「法華経」で、たちまち二人は成仏するわけです。 ―なるほど(笑)。こんな二人でも成仏させる法華経がどれだけありがたいものかと。 渡辺:このお話が面白いのは、『ロミオとジュリエット』みたいな若い男女の恋じゃなくて、年上の未亡人と若い山伏という特異な恋じゃないですか。だから話題になって、たちまち『今昔物語集』に収録されて、布教用のパンフレットから文学に昇格したんです。それから『鐘巻』っていう能楽になって、演劇になった。それもずいぶん人気だったから、絵巻物として「美術」の世界にも入っていったんですよ。 ―その後も「歌舞伎」や「文楽」など、多くのジャンルを横断し、『道成寺』は現代まで長く知られる作品になったわけですね。akb48 渡辺:そうです。特に大きな変化が生まれたのは、能の『鐘巻』になったとき。この能の作者が非常に頭のいい人で、昔話の『道成寺』をそのままやっても嘘っぽいし、当時のお客さんにはウケないしということで、物語の後日談を作り出して、焼き払われてしまった道成寺の鐘を再興しようという、自分たちと同じ時代の話に変えてしまったんです。それで新しい鐘の音を聞いて、未亡人の霊が目を覚まして甦ってくる。お寺の「鐘」というのは、昔は女の人から櫛やかんざしといった化粧道具を寄付してもらったお金で作っていたんですよ。何故かというと、法華経では女性はそのまま成仏できない。「変成男子」といって、死んだ後に1回男に生まれ変わってからでないと成仏できないんですよ。 ―そうなんですか!? せっかく女として生きてきたのに……(笑)。 渡辺:ひどいよね。セクハラですよ。しょうがないから女性同士で寄付を集めて少しでも成仏できるように鐘を作ったんです。それを未亡人は毒蛇になって焼いたわけですからね。鐘を焼いて、自分が成仏しなくてもいいというところまで思い込んだから、道成寺は深いんですよね。 ―「鐘」には、そんな意味も込められていたんですね。そうして、同時代の物語にしたことで、よりリアリティーが出て共感を呼び、能の『鐘巻』は非常に大きな反響を呼んだわけですね。 渡辺:そう。その後は地方に広がって、歌舞伎や音楽にも伝わっていって、今回上演する『日高川』や『鐘の岬』という音楽や舞踊が生まれたというわけです。最初は宗教だったものが、文学、演劇、美術、そして音楽に。あらゆるジャンルを横断して日本文化の底流に流れているというところに『道成寺』の特色がある。そういう例は他にもあるんだけれど、その中でも『道成寺』は、女の怨みを扱っているために突出しているわけです。 ■『娘道成寺』は、流行歌をメドレーにして、1つの歌にしてしまったんです。美空ひばりと松任谷由実とAKB48の歌が1つの流れになってドラマができていたら、それはみんな観たいよね。 ―『日本舞踊と邦楽による道成寺の世界』で上演される日本舞踊『娘道成寺』では、「未亡人」が「娘」になって演じられるようですね。 渡辺:そうなんです。宗教パンフレットの段階では未亡人だったのが、時代とともに若い娘の設定になって、怨念から恋の物語に変わっていくんです。それと同時に江戸時代に入ってから宗教的なタブーも少なくなって、だんだん身体の動きも解放されてくる。年増の女でガチガチに固まっていた身体が、娘になって自由になっていく。『娘道成寺』が面白いのはそこなんですよ。 ―身体の動きが解放されるというのは? 渡辺:安土桃山時代くらいまでの身体というのは、まだ社会や宗教によって様式的に絡めとられていたんです。だから、それまでの年増の女は、動きの少ない能で表現できたんですけど、娘のような生き生きとした動きは表現が難しかった。その娘の魅力を発見して実現させたのが、江戸時代に生まれた『歌舞伎』や『舞踊』だったんですよ。 ―つまり『娘道成寺』は『道成寺』の中でも、身体の動きが楽しめる演目でもあるんですね。 渡辺:堪能できると思います。それと『娘道成寺』の魅力は、曲がメドレー形式になっている点で、それは当時の流行歌をどんどん採り入れていったから。『娘道成寺』の有名な「クドキ(女性の側から恋や嫉妬の心情を訴える場面のこと)」の歌は、3つの流行歌から形成されているんですよ。 ―別々だった3つの歌を、勝手に1つの歌にしてしまったんですか? 渡辺:そう。メドレーにして当時の流行歌をどんどん入れたわけ。たとえば、美空ひばりと松任谷由実とAKB48の歌が1つの流れになってドラマができていたら、それはみんな観たいよね。 ―たしかに。いいとこ取りと言いますか、当時としてもかなり画期的な試みだったんですね。 渡辺:現代にも通じるところがあるでしょう? しかもそのいいとこ取りが非常に巧妙にできている。面白いのは3つの歌の中で、娘から遊女、人妻へと変化するんです。つまり女性の一生をコラージュしながら描いているわけ。だから、その中で女性の仕草や振りが全て楽しめるという魅力もあるんですよ。とても多面的に女性の姿を映しているんですね。akb48 ―原作があって、それを自由にリミックスするという点においても現代に通じるところがあるように思います。 渡辺:不思議なことに、日本では作品全体の構造は問題にならないんですよね。ヨーロッパでは、全体の構造がしっかりしているでしょう? でも日本は全体の構造がめちゃくちゃ変わっていたりする。建築の様式を比べるとわかりやすいけど、日本の建築って「建て増し」なんですよね。ベルサイユ宮殿は細部に至るまで全体の設計図ができていて後から付け加えたりしないけど、桂離宮は建て増しで作られていった。日本とヨーロッパの精神の違いは、建て増しと全体設計の違いからも感じられますよね。 ■舞台を観るコツは、観客一人ひとりが白紙のままの全身で受け止めるっていうことが大切なんですよね。 ―はじめて日本舞踊を観るにあたって、心がける点はありますか? 渡辺:人が踊りを観るときに大切なことは「視覚だけじゃダメ」ということですよね。クラシックバレエにしてもコンテンポラリーダンスにしても、目で見て心で感じればいいって言われるでしょう? でもそれだけじゃ日本の踊りはダメで、さらに頭を使って想像しないといけないと思う。「なぜ鐘が大事なのか?」「なぜ年増の女はこんなことをするのか?」ってことを想像しなきゃダメ。つまり「全身で観る」ということ。芝居であればある程度わかるとは思うんですけど。 ―内容もセリフで説明してくれることが多いですもんね。 渡辺:そう。だけど踊りは、想像力も使って「全身で観る」ことが非常に大事。 ―観る側も身体を使って観るということなんでしょうか。 渡辺:踊りってつまりは抽象で、イメージだからね。音楽もそうでしょう? 耳だけで聴いていちゃダメだと思うよ。モーツァルトやベートーベンが何を思っていたのか考えないと。観客一人ひとりが全身を使って受け止めるっていうことが大切なんですよね。 ―観客の姿勢という意味では、現代アート作品を観るときの話にも通じる点があるように感じます。 渡辺:言葉の比重が大きい芸術は、鑑賞しやすいかもしれないけれど、言葉というコミュニケーションを排除した抽象芸術を観るときには、能動的に想像力を使って感じ取ろうとすることが絶対必要だと思いますね。 ―でも、なかなか難しい問題でもありますよね。テレビにしても他のメディアにしても、受け手にとってよりわかりやすく、心地良くさせるという方向へ全体が流れているように思います。 渡辺:それはつまり、現代人の身体感覚が衰えているってことだと思う。能動的に細部を感じ取ろうとする力が足りないんだよね。 ―なるほど。だから現代では、全身を使わなくても「受け取れる」メディアが求められるのかもしれませんね。逆にダンスや舞踊を観るという体験には身体感覚を養う要素が詰まっているということになります。 渡辺:たまにはそういうことをしないと人間の精神は回復しないと思う。踊りにしろ、演劇にしろ、自分の祖先である日本人の感覚や考え方を確認すると同時に、自分が今どうやって生きているかということを客観的に確認しないといけないんじゃないかな。そのために音楽も演劇もあるんじゃないかと思う。 ―舞台に全身で向き合って、自分自身を確認する。 渡辺:身体感覚が鈍っていると、もともとイメージで掴むことができていた身体が見えなくなってしまう。昔から常に日本人は見えないものを追い求めてきたわけで、神棚に何も入ってないってことは、神は自身の心で想像しなさいってことでしょう? 偶像がないってことは、心の中にあるということ。見えないものを見ようとしなきゃダメ。見えるものしか見ないと、役者も作品も人間もダメになっていくと思うなぁ。akb48 オーバードライブ ディストーション おすすめ ギター エフェクター ゼンハイザー モンスター ヘッドホン akg k540 akg k340 akg k702 akg k420 shure イヤホン オーディオインターフェイス

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